TV日本人は何をめざしてきたのか 丸山眞男

 私は教員採用試験に長いこと受からなかった分、いろんな学校で、いろんな先生の授業を見る機会があった。いろんな素晴らしい先生が(もちろん反面なんとやらも)いたが、一番民主主義を貫いてて唸らされたのは20代女子のかとーちゃん(仮)だった。

 かとーちゃんは、多数決を取る場面で、必ず全員の挙手を待った。人数を数えて足りなければ何度でもやりなおす。まどろっこしく感じたが、一回でも全員に挙手させないことがあると、迷ってたり、勇気が出なかったり、話しを聞いていなかったり、面倒くさがったりしてまだ挙手していなかった子が「あ、無視された。私の意見が反映されないんだ。なんか議論に参加する気が萎えてきた」「考えないで済むならそれでいいや」となってしまい、次回からどんどん参加しなくなっていってしまう。
 また、「一人1日1発言」も行っていた。私の支援していた子はこのルールがあることで、授業を何となく聞いて、自分の参加できそうな部分を見つけるとすかさず挙手をしていた(次年度、このルールがなくなると彼は内職に専念するようになった)。

−デモクラシーの考え方は『パートタイム政治参加』です。つまり大部分は職業政治家じゃないわけです。国民であって。人民主権という意味ですね、大部分は職業政治家じゃない人民が、政治について最後の発言権を持つという考え方でしょう。だからアマチュアが「知らねえや」とシラけちゃうと「政治なんて関係ねえや」ということになったら民主主義はおしまいです。すこしの時間を割いて、職業政治家のやる政治を監視しなきゃいけない。やっかいなんですよ。やっかいなことによってデモクラシーは成り立つ。そういう政治の仕組みなんです−丸山眞男 岩手県での講演記録

 そして、多数決の後、少数派の子たちに「これでいいかな? 何か意見があったら言ってね」と必ず確認する。そこで少数派の子たちが納得できる理屈を言って認められることもあったが、たいていは「それでいいよ」とうなづいた。大切なのは、少数派でも「尊重されてる」と感じれることと、自分の考えで多数派を許容したと思えることだ。

「丸山は多数者支配という日本の民主主義の伝統を、少数者の権利から民主主義を組みかえていく」当時東京大学の助手

永久革命としての民主主義は一人一人が主権者として発言できる。ということが民主主義なんだと。その一人一人が発言できるためにはお互いが理解し合わなきゃいけない。対話がなきゃいけない。対話が成立するためには不利な人の立場もその身になって見るということが必要。本当に絶えず一番下から言葉を掘り起こし、主権者としての発言ができるようにするためには、それをくみ上げる他者感覚が必要なんだと。だから私としては『永久革命としての民主主義』と、『永遠の課題としての他者感覚』が、表裏の関係を成しているというのが丸山眞男から今日引き継ぐべき最も重要な遺産だ」政治学者 石田雄

「多数を持っている人たちも自分の考えにあぐらをかくんではなくて、少数、あるいは自分と違う他者へのいっぺん共感してみようという思いを持ってお互いの討論をすると。(そこが今の政治に足りない)」参議院議員 江田五月

 子どもたちは授業が楽しみだった。自分たちの意見で授業ができあがるから、一回一回が手作りの、台本のない冒険だった。
 数学の先生には苦言を呈されていた。「算数の本筋から逸れる意見はもっと軽く扱ったら」と。それでも彼女はどの意見も大切にし、効率を優先して教師から正解を漏らしたり促したり台本通りに進めようとすることがほとんどなかった。
 学校全体での発表会に向けても子どもに任せ、教員が手を入れまくった劇などに比べると完成度は低かった。
 一度、私が側で見ていてグラフのまとめ方のアドバイスをしてしまった。確かに完成度が上がった。そして子どもたちは褒められてこう言った「A先生のアイディアだよ!」…
…待つっていうのはとても忍耐の要ることだ。任せるということも。でもそれをしないと子どもたちが大人の顔色をうかがって正解を探るクイズ大会になってしまう。

−高度成長期以後の日本の政治的社会的現実はですね。ある意味で固定したレールの上を滑るようになっちゃった。軌道が決まってしまっている時代。それはそもそも民主主義ではないのですよ。民主主義とは多様な可能性からの選択でしょう−インタビュー

 極端に専制君主的な教師もいる。大人がビビるぐらいの重圧で、よく子どもが毎日耐えているなと思う。規律正しいが、圧に弱い子は学校に来なくなる。
 授業を工夫するのが、子どもと楽しむのが好きな教師もいる。そういう場合規律が欠けがちで(子どもが調子に乗って軽口叩くんです)、子どもには愛されるが周りの教師からの評価が低くなりがち。
 tossな教師もいる。tossは全員をスモールステップに乗せるやり方で、学習につまずく子の学習量の確保という面では素晴らしいと思う。ただ、授業は完全に台本通りでどちらかというとクイズ大会に近い。
 彼女は、いけないことをすると氷のような目で見、子どもをピリッとさせる。でも根っこは完全に民主主義。その絶妙なバランス。
 もう一人、子どもの議論をひたすら待ってすごい6年生を作りあげていた30代男性も知っているのだけれども、彼女のクラスもその男性のクラスも次年度担任が変わったら、担任に落胆し、「議論への全員参加」「少数派の尊重」という民主主義は見るも無残なことになったんだよな…。
 民主主義は構成メンバーに寄るのではなくて、末端の意見も尊重されるというシステム作り(と、その理念の徹底)にあると思う。

−民主主義は制度としてでなく、プロセスとして、永遠の運動としてのみ現実的なのである−新安保条約から2ヶ月後のノート

−世界中どこも民主化が完了した国はない。し、これから永久に革命していかなければならない。あらゆる国は民主化の過程にある−講演記録