大島弓子とドストエフスキー

話を戻すと、小説のひとつの理想は、最初に解決不可能と思える問題(ないし対立)を提示して、それを解くことだ。・・・(中略)・・・この「解決不可能と思える問題(対立)」を最初に提示するという方法をもっともシンプルに先鋭化した作品はしかし、ドストエフスキーではなく、大島弓子の漫画なのではないかと思う。
保坂和志「書きあぐねている人のための小説入門」】

昔ここを読んだ時には、ドストエフスキーと比されちゃうなんて凄い★とミーハーに思った。ドストエフスキーなんて一冊読みきったことすらないのに。
でも最近、「小説の誕生」を読んでいて、ドストエフスキーのことが書いてあるところを読んでいると、大島弓子との共通点が出てくる出てくる・・・

ドストエフスキーの人物たちのしゃべりには、ここで感じられるナルシシズムの匂いがない。彼らは全身を投げ出すようにしてしゃべる。そういえば、ドストエフスキーの小説では、登場人物たちは頻繁にどこかに駆けつけなかったか?・・・どの長篇もたった数日かそこらのことなのに、人物は何年分も考え、そしてしゃべる。・・・しかし小さい時間と空間に圧縮しているからこそ、ドストエフスキーの熱や強度が生まれてくる。その熱や強度はそのまま、世界に向かって開いた口になる。
保坂和志「小説の誕生」】

いしかわ「俺、この人のデビュー数年ぐらいの過剰なねぇ、過剰な感情の流れみたいなのがすごく好きだったの。人の死みたいなのを今みたいにきちんきちんと、あの道具といっちゃあれだけど、小道具の一種として、上手く使っていかないで、「死」っていうものがここにでかくどーんとあって、それをテクニックなしにって、きっとあったんだろうけど、だぁーっと多量な言葉で流していっちゃうみたいなのがね。」
いしかわ「セリフも多いし、ナレーションも多いし、とにかく圧倒的な量だよね。」
竹熊「(普通だったら編集者が削れって言うけど)ただ大島さんの場合はこれはもう必然的にこうなんでしょうね。やっぱ、これだけのセリフの洪水がないと。」
キネ旬ムック「マンガ夜話大島弓子の回】

大島さんの作品は生理的にフィットする、それは髪の毛をバサバサさせて女の子が走っていたり、感情がダダッとこみあげて突然昇華されちゃう感じ。その生理のリズムにリアリティーがあるんです。そんな表現は当時の文学にはなかった。
【「一億人の漫画連鎖」より氷室冴子

大島弓子の作品の登場人物は走る。ホワイトアウトの錯乱の中を走る。失ったものを取り戻そうと、大切なものを守ろうと必死なのだ。「心の臓よ止まってしまえ!!」「みんなが大好きだったんだ!!」。そのバックを雪が舞い、雨が降り、白い綿のようなものが舞う。
その錯乱の果てに、吹雪がすべてを吹き飛ばしてくれたかのように、新緑が広がっている。・・・しかしそれは単なるハッピーエンドではない。必ずある種の哀切感を伴っているのだ。
【「一億人の漫画連鎖」より東玲子のところを要約)

もういっちょ。

・・・一つ一つの小説は絶対にたんに作品として完結することなく、もっと大きな問いや世界に向かって開かれている、というか、口が開いている。
 それは、作品としてよくできているかどうかとは別のことであって、・・・カフカドストエフスキーも、大きな問いに向かって口が開いたままにしておくことには熱心だけれど、作品としてケチのつけようもないくらい見事に作られているとは思わない。その証拠にナボコフは『ロシア文学講義』という本の中で、ドストエフスキーのことを劣等生扱いしている。
保坂和志「小説の誕生」】

いしかわ「いや、でも大島さんのマンガってさあ、どれ読んでも、ひょっとして失敗かなといつも思うんだよね。すっごくきっちりした構成にはなってないんだよ。」
キネ旬ムック「マンガ夜話大島弓子の回】

今年の冬はドストエフスキー

そいでもって、今日の「学校へ行こう」はマラーホフの『牧神』だった。またニジンスキー