鷲田清一×永江朗 「てつがくこじんじゅぎょう 〈殺し文句〉から入る哲学入門」

P194アリストテレス形而上学
鷲田 必然性っていうのは、原因/結果で考えると、いつでも一本線になる。人生、分かれ道がいっぱいあっても、一本の因果で道は決まっていた、っていうふうに。いまの「私探し」とか「アイデンティティ」っていうのは、ぜんぶ必然性の考え方でしょう。生まれたときから今日まで、話が続いていないと落ち着かない。「ああして、こうして。だから私はいま引きこもっている」と。時系列ですっきりと説明したくなる。でもそれはすごく抽象的だと思う。だって、人生なんてほとんど障害物とぶつかってはじけた結果ですよ。・・・自分の人生を因果の必然性で考えるのはやめたほうがいいよね。
永江 リニア(線型的)な思考はダメ!
鷲田 人生は断絶で考えよう。
永江 釘の角度がちょっと違っていたら、ぜんぜん違った人生になっていたでしょうね。
 リニアな人生というのは、自己同一性にこだわった人生ですね。「本当の自分」を一個じゃなくて一ダースぐらいそれえれば気楽なのに。「今日は雨だから引きこもりの自分でいこう」とか・・・主義主張が首尾一貫していなくてもいいじゃないですか。服を着替えるように、自分も取り替えたい。
鷲田 人生太く生きるためには「こうでもありえた」「ああでもありえた」といっぱいあるほうがいいんですよ。そういう意味では、偶然に重きを置いたほうが、人生は豊かになる。
永江 (アリストテレスの文章を言い換えると)こうでもありえた、ああでもありえたという可能性を一つずつ潰したのが・・・・・・
鷲田 人生なんですよ。そうなんですよ。人生というのは、こうでもあり、ああでもありという可能性を一つ一つ取り下げていくんですよ。残ったものが一つずつあるから、それをつなげると一本線に見えるだけ。ところが哲学は深くて、そうするより他はありえないと考えることで豊かになるのも人生なんです。
 芸術の営みというのは、自分が追わされた必然=限界のなかで、それを超え出るものをどれだけ作り出すかということでしょう。そう考えたら、ハンディキャップのある人も、障碍はその人の存在にとっては偶然だけれど、それを前提として歩む人生は必然じゃないですか。必然との格闘で、こうでしかありえないというものを超える、限界が限界であることを超える世界を作ってしまう。これもまたすごいことではないですか。
永江 必然性をつきつめて超えることもできるんですね。