白州正子自伝

そこを考えようと、白州正子自伝をひもときます。まずはこれぞ武士道。しびれる〜の部分から。

薩南示現流の使い手、指宿藤次郎と前田某が見回組と遭遇。前田は逃げた。指宿は5人の敵を倒すも転倒、殺された。
指宿の葬儀にて、指宿の親友の橋口覚之進は、棺の蓋を開けたままにさせておいた。前田に言う。「おはんが一番焼香じゃ。さきぃ拝め。」。ただならぬ気配。前田はブルブル焼香し、橋口の死体にうなだれた。瞬間、橋口は腰刀を抜き、一刀のもとに首を切った。首はゴロンと棺の中。「こいでよか。蓋をせい。」(以上要約)

この葬儀の場合は、葬儀というより一種の儀式で、参列者は元より、斬る方も斬られる側も、すべては暗黙の了解のもとにあり、「こいでよか」の一言で済んだのであろう。そのあとに音信れた何ともいえぬ静寂な空気まで私には感じられるような気がするが、ほんとうの葬式はそこからはじまったのではなかろうか。

「惰弱」に流れた者は一太刀にできるその覚悟、気性! というか前田某も葬式からは逃げてないのだから凄い。そんで、橋口覚之進(のちの樺山資紀:倒幕を企て寺田屋で殺された橋口伝蔵の弟)こそが白州正子の祖父、とつながるのです。さて、示現流とは、

薩南示現流:最初の一太刀に命を賭した早業
右手がつぶてを投げる要領でいっきに剣を振りおろす。左手に力が入ると太刀先が遅れるから、左手はなきに等しく、ただそえるだけ(トンボの構え)。「薩摩の初太刀は必ず外せ」と、諸藩の人々に畏れられた。
刀は敵を破るものにして、自己の防具に非ず。攻めだけがあって、受け技はない。
日々の修練においては、ただ走って来て、立木を打つ。朝に三千回、夕に八千回くり返す。祖父・橋口覚之進は、これを生きたのであった。

いや、すんごいかっこいい捨て身の技ですね。剣道の試合とかで実際にこんな技をしているひとがいたらぞっこんになっちゃいそう。
そんで、薩摩人の気性を「とかく前後の見境もなく飛び出すのが薩摩隼人の習性で・・・」と称するのだ。やはり技は精神を表す?
しかし、そんなのん気なことも言ってられないなあ、となるのが以下、

それにしても、海軍について何の知識もない陸軍の一将校が、曲がりなりにも職務(海軍軍令部長)を果たすことができたのは、封建時代の教育にあるのではなかろうか。祖父の場合でいえば「示現流」の技法だけでなはなく、その背後にある剣道の精神によって鍛えられた不屈の魂が、臨機応変の処置をとらせたのではないかと私は思っている。とかく精神とか魂とかいうと、非現実的に聞こえるばかりでなく、太平洋戦争に負けたのも、そういうものに頼りすぎたためであることはいうまでもないが、そういう難しい話は後にゆっくり述べるとして・・・

はいはい来ました〜。さっき、NHKスペシャルビルマ〜中国戦線の玉砕部隊をやっていて、あまりに痛々しすぎて重すぎてチラ見しかできなかったんだけれども、その中で出できた手記で
「包囲されては逃げられない/包囲されなくても、組織(部隊)の中にいれば逃げられない/なぜ、(日本人は)逃げることを恥と考えたのか/組織ごとに逃げられるシステム・思考がなぜなかったのか」(正確ではありません)
そうなんだよ!まさに玉砕は、逃げることを恥と考えた武士道こそが生み出したんだよ!

だからって、今がいいとは思えない。昔は、武士道があった。今は?武士道はなくなった。でも、民主主義も個人主義もない。何もない。
自己責任もない。なにか失敗するごとに「マコトニイカンダ、モウシワケナイ」で土下座して済んでるんだから。悪い部分(覚悟のない恥)だけはしっかり受け継いでる。紙をやぶいて謝っておしまい*1
自己責任って何か?それは自分のやっちゃったことは自分でケリをつけようと、具体的な改善策を考え表明し実行することだろう!

戦争についてもさ、「戦前は全て悪、よって武士道も全て悪」でなく、ちゃんと考察しなきゃ。戦前の良いところと悪いところ、どうしてそうなったのか、具体的な改善策。
結局、戦後民主主義はそうやってできたものではないから、空論になってしまって、今じゃほとんど死に体なのだから。

*1:http://www.1101.com/2004_TV_taiga/040806.htmlの終盤糸井さんの発言