「子どものための哲学対話」永井均

子どものための哲学対話

 忘年会の2次会で、勤め先のNo.1が、No.2に、ヒステリックに怒り狂いました。

 もう片方の部屋(隣の部屋)に居たNo.3以下に、大声の部分は筒抜け。No.3以下、まずい〜、怖い〜、No.1の精神状態が尋常じゃない〜と、縮こまっておりました。

 私は、No.1とN0.2を端的に説明できる言葉を最近知ったので、頭の中で考える助けになった。
 No.1は「ネクラ」。No.2は「ネアカ」。

ネクラ

  • なにか意味のあることをしたり、ほかのだれかに認めてもらわなくては、満たされない人。下品。
  • 道徳的な善悪を重視しがち。自分の外側にしかたよるものがないから。

ネアカ

  • 根が明るい人。いつも自分の中では遊んでいる人。勉強・仕事・目標のための努力・・・なぜかいつもそのこと自体が楽しい人。
  • 自分自身で満ちたりている。なにか意味のあることをしていなくても、ほかのだれにも認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで満ちたりている。上品。
  • 未来の遊びのための準備それ自体を、現在の遊びにしちゃえる。他人のための奉仕それ自体を、自分の娯楽にしちゃうことだってできる。
  • 道徳的な善悪なんてたいして重視しない。けっこう平気で悪いとされていることができる。(以下、枠内「子どものための哲学対話」より)

 ぶつかったそもそもの理由は、教育委員会が、どうしようもない方針を立てたので、No.2が、No.1に「教育委員会の方針は、安易な方向に流れているだけで信念が感じられない。No.1は理想の学校観をきっちり持ち、直属の上とぶつかって欲しい!」と直訴したため。

 そしたらNo.1は「教育委員会を非難したらいかん」と、最初は穏やかに・・・しかし話が全く分からないので見下されていると感じたNo.2はいきなり「上の人をバカにするとは不届き千万!」と爆発し、自分のうっぷん(昇進が遅れていること)を、ヒステリックに怒鳴り散らしはじめた、と。

 No.1はまさにネクラ。理想の学校観なんて全く持っていない。他の人に褒められる学校、他の人にけなされない学校、であることのみに神経質にこだわっているだけ。

 そして、No.2の言っていることが何一つ分からない。ただ、「上の人を批判するなんて道義的に間違っている」としか、受け取れない。

 わすれたいのにわすれられないんじゃなくて、ほんとは、わすれたくないんじゃないかな?いやなことほど、心の中で何度も反復したくなるし、いやな感情ほど、それにひたりたくなるんだよ。わすれてしまうと、自分にとってなにか重大なものが失われてしまうような気がするのさ。
 いいことや、楽しいことは、それ自体で満ちたりているから、わすれてしまってもぜんぜん平気なんだけど、いやなことのほうは、覚えておいて、あとで、なにかで埋め合わせをしたいと思うのさ。だから、だれかにいやなことをされたときなんか、その人に対するうらみつらみという形で、そのことを心の中に残しておきたくなっちゃうんだよ。
 そういうときは、自分のやりかたを発明しないとね。そういうことに、自分自身のやりかたを発明するってことが、おとなになるってことなんだよ。自分に起こるいろんないやなこととか、不愉快な気分なんかを、自分の中でうまく処理する方法を身につけている人が、ほんとうの意味でのおとななんだよ。

 いやな気持ちにひたりきることと、その原因を理解しようとすることは、逆のこと。
 ある感情がわきおこってきた原因をよく理解すると、その感情がうすれたり、消えたりすることがあるんだよ。つまり、頭でよくよくわかってないから、いつまでも心でもやもや感じちゃうんだよ。(スピノザ

 まさに、No.1は、「不当に、同期にどんどん抜かれていってる」という恨み辛みにひたりきっている。自分の中で処理できずに、No.2に怒鳴り散らしている。そして、原因を冷静に考えたり、自分を省みることを先送りにしている。

 例えば、どんないやなやつだって、そうならざるをえなかった必然性というものがあるんだ。どうしようもなく、そうなっちゃっているんだよ。その人はね、自分がであってきたいろんな問題を自分の中でうまく処理するためには、そういう人格をつくることがどうしても必要だったんだよ。そうでしかありえなかったんだよ。その人がそうでしかありえなかった理由が、ぜんぶすっかり理解できたなら、その人に対してきみがいだいている感情は、消えてなくなるんだ。

 No.1は気の毒な人だ。他者評価しか規範がないって、すごい不安定な状態だ(実際、鬱病になりかけていた)。No.2の話が理解できない。そして、No.2が、訳の分からないことを言って、しかも自身満々に見える(信念や、自負がある)のが気にくわない。不当にNo.2にバカにされているとしか感じ取れない。また、周りからの評価も不当に低いとしか感じられない。

 どんな職業にも一定確率で困った人が居るけど、教師(特に担任)の場合、実害が大きすぎる。ま、No.1は校長だからいい。子どもに直接害はないから。こういうのが担任だと、子どもの心が本当に死ぬ。そんな場合、「その人に対してきみがいだいている感情は、消えてなくなる」なんて悠長なことは言ってられないと思う。教師の場合、実害が大きすぎるから、やはり、不適格教員をあぶりだす制度をきちんと機能させて欲しい。

 私の地域から不適格教員は一人も出ていない。それは、不適格教員を出すとイメージダウンだから、そもそもその制度を全く機能させていないのだ。4月に地方のTOPが言った「うちの地域には、不適格教員が居ないと私は信じています!」なんだそれ!!!お前が楽をしたいだけじゃないか。

 不適格教員が多い地域こそ、制度をきちんと機能させている、信頼に足る県ではないか(現時点では)。不適格教員が一人も出ていない地域こそを疑うべき。

 じつをいうとね、すべてを理解しつくせても、たまたまそこに自分がいたという不運の感情だけは消せないんだ。理解するってことは、そういうことはあって当然なんだって思えるようになるってことなんだけど、自分が存在しているということは、けっして当然のことではないからね。